ダブルクロスシステム論

≪DX3rd プレイ記録

CoCとプレイヤーコミュニティへの愛をこめて

ダブルクロスの経験点について

経験点の最大化を目指すゲームが良いゲームという規定は奇妙だ。そもそも、何が良いゲームなのかはプレイヤー自身が知っている。それぞれが楽しいゲームと感じて解散することを誰もが望んでいるし、そのために他のプレイヤーが何を楽しんでいるかを察知して、協力することがTRPGのコアな体験である。良いゲームとは何かについてを点数化するのは興覚めであるといえる。たとえるなら、システム上「良いプレイ」に報酬を与えるルールというのは、人助けに対する表彰状のようなものであるべきある。表彰状を目的として人助けをする人はいないが、人助けをしたことに対して表彰状をもらうと、道徳性が承認されたことに喜ぶのである。点数というのはフレーバーに過ぎない。表彰状を渡す側は、その人それぞれの内面に合わせて、何を褒めるのが良いのか気を遣い、喜んで受け取ってもらえるように文面や儀式の形態を調整しなければ、表彰行為が無礼だと扱われかねないのである。

プレイヤーがゲームを破壊することから守るために、経験点や演出でプレイヤーの欲望を誘導する必要はない。他のプレイヤーの楽しみを破壊してまでも、自分のプレイングを優先させるプレイヤーには警告し、議論に応じないなら退場してもらうしかない…。そもそも、そのような事態が生じるのなら、別な遊びをする方が本人にとっても有意義であるといえる。プレイヤーが問題を引き起こす可能性があるからといって、GMがプレイヤーの遊ぶ目的を心理操作するのであれば、それはGMの一人遊びになってしまう。GMは、ダイスの出目というよりも、プレイヤーのゲームに対するモチベーションという不確定要素にいかに対処し、プレイヤーが生き生きとゲームに没頭する物語を作り上げるかというのが、GMの目指すべき遊びの姿である。

このような立場からは、GMとプレイヤーが敵対するという状況の発生自体が不可解である。ゲームを遊んでいるという状態が破綻するなら、全員が遊びに失敗しているにすぎない。

さらに、経験点システムはGMを自縄自縛するシステムであると言える。なぜなら、経験点を最高の報酬としてプレイヤーを誘導してしまった以上、経験点が大きいことでプレイヤーがよりゲームを楽しめるようにしないといけないからである。システム上、経験点が大きいことでキャラクタービルドの幅が広がり、複雑なスキルセットをもつキャラクターを作成することができる。それは事実であるが、楽しみはそこまでである。GMがプレイヤーを管理し、確実にシナリオの展開させ、プレイヤーにより多くの経験点を持って帰ってもらおうと考えるとき、キャラクタービルドの幅や複雑なスキルセットをもつキャラクターは不確定要素を増大させる要素でしかない。プレイヤーキャラクターがより強大な敵と戦えるようになったと言っても、それは数値上の話でしかなく、実際の複雑なスキル発動のもたらす不安定な結果に対処し、プレイ時間や結果を管理するために、より多くの安全装置が導入され、結局のところ物語の展開におけるプレイヤーの影響は減少し、安全装置が物語を確定するようになる。さらに、経験点の大きいプレイヤーと初心者のプレイヤーが分断され、本来同じ卓を囲めたセッションが実現不可能になり、コミュニティの先細りという心配を抱くようになる。結局、GMは「初期作成キャラクターのみ参加可」とか、「経験点130点でキャラクターを作成すること」など身もふたもない条件で参加者を募るようになるのだ。こうなっては、経験点の価値など無きに等しい

GMにとっては、経験点が本当のセッションにより獲得されたものであるか、架空のセッションにより偽造されたものであるのかというのは、実はどうでもいいのだ。GMにとって重要なのは、そのプレイヤーがキャラクターの過去に対する愛着をもっていて、その過去から作り上げたキャラクタービルドに反映されたプレイスタイルの可能性を実現することに、プレイヤーが大きな喜びを感じるであろう…ということだけなのだ。

TRPGのダブルクロスは初心者に対するテストプレイを繰り返し、「問題なく」シナリオが進行するように設計されたために、プレイヤーを管理する傾向が強まり、プレイヤーの心理を誘導するための経験点システムを抱えているといえる。システムが内包する潜在的なGMとプレイヤーの対立構造から脱却するためには、経験点を「意味づけの源泉」から「意味づけの対象」に引きずり下ろす「遊び方」が必要であるといえる。

「シーン制」の是非

TRPGにおいて、プレイヤーのエンゲージメントというのは非常に重要である。自分の出番が来たら十八番のコンボを得意顔で披露し、他人の出番が来たら漫画を読んだり他のゲームをしたりするというのでは、TRPGらしい経験をしているとは言えない。物語の中で誰が行動している場合であっても、自分はその物語の当事者であり、物語の中でおきた事象について常に自分なりの解釈を絶え間なく行い、必要であれば物語に干渉するというプロセスを経ることによって、プレイヤーたちとGMは同じ物語を共有し、共に作り上げたと言える。

シーンプレイヤー制というのは、この考えに反対するようである。プレイヤーらが個別行動を行うとき、シーンの境界を定める要となるプレイヤーを設定し、そのプレイヤーを中心とした時空間的に切断された現象の単位により物語を構造化するという発想自体は、まったく有害ではないように思える。しかしながら、シナリオにシーンプレイヤー制を導入するとき、「各プレイヤーに見せ場が均等になるように確保してあげよう」という老婆心がたいていあり、これが問題を引き起こしている。各プレイヤーに見せ場が均等になることをGMという権力者が保証している場合、自分の番は他者を配慮する必要がなくなる。逆に、他者の番においては自分は「いてもいなくてもよい存在」に収まることが要求される。極端な話、それぞれのプレイヤーがひとつながりの物語としては矛盾する演出をしていても、GMがあらかじめ決められたシナリオにそってシーンを進行させてしまえば、何ら問題なくゲームは継続する。このようなゲームが繰り返されれば、他人に対する配慮により自分の演出を調整したとしても、そのような協力をそもそも期待していない相手に受け取られない可能性が高まり、配慮をする動機も弱まってしまう。

「各プレイヤーに見せ場が均等になるように確保してあげよう」というのは、結局のところ要らぬおせっかいであり、実際には、見せ場が均等であろうがなかろうが、各プレイヤーは自分が望むキャラクターの在り方を実現したいのである。プレイヤーによっては、自分の見せ場はなく、他人の見せ場にこっそりと協力するというのが、自分のキャラクターらしい姿だと思うことも珍しくない。また、プレイヤーが思う見せ場というのは、GMが想定しているシナリオの山場でのカッコいいセリフやとどめの一撃とは限らないので、このシーンはあなたの見せ場ですと押し付けたところで、プレイヤーにとってはありがたくないことも多い。結局のところ、プレイヤーとGMは協力してそれぞれの望む表現を探り合い、お互いの欲望を解決する物語を発明するほかない。このような探り合いや即興の発明は、シナリオにあらかじめ用意された個別演出シーンの再生とは全く反対の性質をもっている。

シナリオに求められるのは、プレイヤーの欲望を喚起する刺激であり、こんなことができたらよいなという想像を具体的に思い描くのに十分な素材の提供である。楽器の即興演奏において、あらかじめコード進行を決めておくように、物語のはじまりから終わりまでぼんやりとした筋が示されることで、プレイヤーそれぞれは、他のプレイヤーと調和可能な空想を抱くことができる。他のプレイヤーの言動やGMにより物語が歴史として確定されていき、プレイヤーやGMが行きたい先がより明瞭になっていく中で、自分の空想はその物語の中で働くように調整されていき、それと同時に実現する確信が生まれていく。このように、漠然とした希望から、キャラクター描写の具体的な欲望に昇華されるには、物語の中での他者とのかかわりや、ダイスによる偶然が大きな役割を果たす。これを討論やプレゼンテーションではなく、物語の進行の中で共に発見するというのがTRPGらしい方法論といえる。

部屋からの脱出でもなければ、たいていのCoCシナリオはシーン制である。図書館にいくと言えば図書館に瞬時に移動するし、一週間後に集合といえば一週間の間は何もなかったことになる。とはいえ、シーンプレイヤーが設定されることもない。GMが物語の単位として適切と思う時空間で分割されるだけである。ナラティブの構造を決定するのはGMの権限であり、プレイヤーの均等な出番といったおせっかいではなく、結果として語られる物語としての完成度を通じて、自分も含めた遊びの参加者に満足してもらうのがGMの役割である。

ゴールデンルール

FEARのTRPGにおいては、ゴールデンルールとして提示されるGMの権限は極端な形でのべられているようである。GMはルールを改変したり、無視したり、適用方法を変更したり、ダイスを振らずに処理を決定する権限があると明記されている。このような私が法だともとれる態度に問題はあるのだろうか。

遊びの共同体における政治を考えてもらいたい。顔見知りでの身内卓なら、コミュニティの古参が強く、年長者が強く、尊敬されている人が強い。その遊びの場の実現に努力して準備したと認識されている人が強く、丁重に扱わなければならないお客様が強い。オンライン募集卓でも、募集者(多くはGM)が強く、場慣れした人が強く、教養や知識が多い人が強く、プレイヤースキルが高い人が強い。このような力の差は卓外で発生している。

一方で、セッションが始まってしまえば、このような政治力の発揮は制約される。なぜならば、すべてのプレイヤーはゲームを放棄して離脱する、感情的に暴れてゲームの雰囲気を台無しにするという最終兵器を持っているからだ。したがって、卓の進行においては全会一致が必要というのが必然的なダイナミクスになる。

しかし、全会一致ではゲームが進行しないことがありうる。そこで、全会一致できないときに意思決定が委任される王か、投票などのメカニズムが必要となる。しかし、プレイヤーは最終兵器をもっているので、強制される解決策がゲームを進行させるためには仕方がないと納得する範囲に収まらなければ、この委任というメカニズムはうまく働かない。したがって、実質的な調停案は先ほど述べた政治力の強いプレイヤーにより、プレイヤーが公平だと納得できる案が提案される必要がある。しかし、このようにすると、政治力の衝突が生じうる。有力なプレイヤー同士が討論を始め、争いの当事者が置いて行かれるという事態にもなりかねない。そこで、形式的な決定手続きが必要となる。それが王である。

この王は本来誰でもよく、王はGMがつとめてもよいし、最もプレイ歴の長いプレイヤーが務めるとしてもよいし、選挙で選んでもよいし、卓外に審判を置いてもよい。ただ、ゲームの目的と個人の目的が最も近い人を選ぶのが無難であり、普通はそれはGMであるということになる。もしゲームの内容がキャラクターが無双する様子を描くという内容であれば、無双するキャラクターのプレイヤーが王となってもよいだろう。事実、幼い子供と戦隊ごっこをする場合、その子供が王となり、様々な物理法則や社会法則を強引に捻じ曲げ、好き勝手に物語を改変する。遊びに付き合わされている側は、この小さな王にお伺いを立てて、もっと現実的な案を提示しつつ、それでも素晴らしい活躍ができると説得しなければならない。それでも遊びは崩壊しないのである。

話をTRPGに戻すと、プレイヤーが納得する調停案をつくり、最終兵器の爆発を防ぐためには、その案が公平であり、プレイヤー全体の幸福を最も実現する案であり、ゲームのルール上合理的な解決案であるといった説得のための技術が必要である。GMは全ての権限を有するというのは実は空文であり、実際に意味することは、もし争いを避けてゲームを続けたければ、委任という合意を守り、裁定者にサレンダーせよという一般的な社会法則にすぎない。

このようなGMの脆弱な立場を考えれば、GMの強大な権限というのは、実はプレイヤーの合意はルールを超越するということを表している。TRPGは遊びであり、公式のルールの適用を強制する権力は存在しない。ルールブックは遊びの道具として採用されているだけなので、プレイグループはルールを自由に改変する権限を持っている。プレイヤーの合意する裁定プロセスでは、その権限を十二分に発揮すべし、というのがゴールデンルールの意義だと私は解釈している。

侵蝕率という装置

ゲームにはしばしばセッションの進行度を表す資源がある。大富豪なら手札の枚数であり、カタンならば街や道の数。CoCなら正気度の余裕であり、ダブルクロスであれば侵蝕率である。侵蝕率が高まるほどプレイヤーは強くなるために、強力な戦闘力で物語を迅速に解決するか、さもなくば、ロイスという他の有限資源も使い切り、リザレクトできずに敗北する。この二極化された結末へと加速する効果を侵蝕率はもっている。

また、プレイヤーの直面するルール的現実として、侵蝕度は再現なく大きくすべきものではなく、キャラクターの「なすべき活躍」とバックトラック不成功によるキャラクターのリスクを天秤にかける必要がある。これにより、キャラクターの活躍を無制限に追い求めるのではなく、リスクとの兼ね合いで適正な規模になるように誘導する。

侵蝕率の上昇がコストとして課されるアクションは、シーンへの登場と、戦闘スキルの発動である。これは、俯瞰的観点からいうと、プレイヤーのキャラクターが物語や戦闘において活躍する機会が有限であり、この機会を消費すればするほど、物語の結末が近づくということを表している。そして、この機会の獲得にはリスクが生じ、適正な規模に収められるように誘導されている。これはどういうことか。

侵蝕率というのは、プレイヤーが物語の中で活躍する機会を公平に分配する装置なのである。自己表現のためには活躍の機会が必要で、活躍のためにはシーンの占有と、ボスへのダメージ貢献が必要というのがゲームデザイナーのフォーミュラだ。そして、シーンの数も、ボスが受けとめるダメージも有限であるから、これを功利主義的に分配するために、キャラクターの損失のリスクという「価格」をシステムが提示し、そのリスクを「購入」することで表現の機会という「権利」を獲得するという経済システムを構築したと言える。功利主義においては、金銭的な対価ではなく、「切実度」によって資源を分配するほうが、より倫理的であるとされる。生命という万人に平等な価値、物語内においてはキャラクターの損失のリスクと今の活躍を天秤にかけさせるデザインは、功利主義的に洗練されたデザインであると言える。

しかしながら、ここで疑問が生じる。そもそも、自己表現のためには活躍の機会が必要なのか?活躍のためには、分配が必要な資源が必要なのか?そのように資源が分配されることは、プレイヤーがTRPGをプレイする動機にこたえるものなのかという点である。プレイヤーはマルチプレイヤーゲームに参加せず、自分だけの物語に没頭すれば、自分のキャラクターは100%活躍できるし、また、他人のために無駄な時間が奪われることもない。そう考えると、一つの物語をわざわざ皆で共有するというTRPGのアイデアは、分配のみを方法論として採用する限り、功利主義に非効率であると言える。功利主義における非効率は、悪徳を意味する。

TRPGのゲームデザインにおいて、プレイヤーの快を最大化するためにある功利基準を採用したときに、その功利基準で考えるとTRPGをしないことが最も効率的であると結論図けられる場合、その功利基準の設定には致命的な見落としがあると考えるのが自然である。功利主義的なデザインにおいて、詳細が見落とされ、本当の功利を計算できないことは、人知が有限であることからやむを得ないことだが、これからデザインしようとしている物事の存在意義を否定してしまうような功利計算となる場合は、内省に戻り、より適切な功利基準の仮説をたてるべき明確なサインであると言える。

ある一つの物語の描写がプレイヤーにとって共同して作られ、物語の部分をそれぞれ所有しているということではなく、全体を共有していることが全プレイヤーに同時に価値をもたらすということが、TRPGの経験による効用が相対的にプラスとなるために必要不可欠である。つまり、資源を分配するということよりも、一つの資源を複数人で多重的に利用することによる快の効率性が、TRPGを遊ばれるゲームとして成立させている。多重的に利用するというのはつまり便乗であり、便乗をすればするほど全体の快楽が高まるという経済が存在している。この見方は物語の参与機会を分配が必要な財とみなすデザインと対照的である。

便乗行為が便乗されるものに悪影響を与えるか、好影響をあたえるか、どちらの影響も与えないかについてコミュニケートすることがTRPGにとって重要であり、そのためのインタラクションを増やし、全体の快楽を効率的に増加させる設計が、ゲームシステムのデザインとして望ましいのである。

結論として、ダブルクロスにおける侵蝕率のシステムは、物語の進展管理や、プレイヤーの切実度を図るメカニクスとしては優れているが、シーンへの参加にペナルティを与え、インタラクションの増加を阻害するという点では致命的な問題を抱えていると言える。実際のゲームにおいては、侵蝕率を物語へのインタラクションのallowanceとして分配するのではなく、全員の登場がシナリオで決まっているイベントに対して設定しフレーバー的に用いるか、ラウンド進行のように、繰り返されうるゲーム内手順おいてのみ、プレイヤーが任意で投入するゲーム進行度資源として運用することで、プレイヤーが皆が楽しむという目的のために、物語を発明する自由が与えられていると心から感じることができるのではないか。